研究開発部門が要を担わなければならない「価値づくり」で高収益を確実に実現するビジネスモデルの構築
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「インテリジェンス」という言葉について、
日本では ①知性・知能、②情報(の収集・分析) という2つの意味で用いられます。
①の方は「インテリ」などと略語で使われたりしますが、そちらの語源はロシア語で「知識階級」「知識階層」を意味するそうです。
ここでは、②の意味での「インテリジェンス力」について考えます。
日本メーカーと海外メーカーの双方で活躍されたS先輩が、「日本人あるいは日本企業のインテリジェンス」について以前に語られていた見解を、能書きとしてまとめてみました。
「むら」という共同体(官庁や会社など)で生きてきた日本人は、その眼がどうしても内に向いてしまい、なかなか外に向きません。このようにみてくると、我々日本人がインテリジェンスに弱いのは当然のところで、その能力を高めるためには、強く意識して努力することが必要となるのです。
歴史を見てみると、日本でも「インテリジェンス力」が必要な時代もありました。
戦国時代はその代表であり、当時の戦国大名はインテリジェンス活動に積極的であり、自らもその能力を高めることに熱心でした。例えば、京都・大阪の中央から見れば遥かみちのく(陸奥)の津軽の大名は、秀吉が天下を押さえたことを知ると直ぐさまお祝いの使者を、はるばる弘前から派遣して自分の所領の安堵を図っています。その時代における、その距離を考えると、驚異的な速さでの情報把握です。
インテリジェンスに長じていなければ、吸収・破滅されてしまう弱肉強食の時代において、生き延びた戦国大名はこの能力に強かったと言えるでしょう。
しかし、徳川250年の太平期(世界史上まれに見る平和)では、平和に慣れ「インテリジェンス力」は低下しました。
明治維新の時代は、“このままでは欧米の植民地にされてしまう”と言う強烈な危機感がありました。この時代は、再び戦国のインテリジェンスの伝統が復活した時代でもあるのです。しかし、日清・日露戦争に勝ったがために(自力で勝ったと思い込んだ)、太平洋戦争に突入したころには、日本の支配層の「インテリジェンス力」は地を這うほどまでに下がったとしか思えません。
日本は敗戦により、世界を勉強してこなかった反省も含めて、インテリジェンスへの意識が少しは高まったのかもしれません。敗戦の時から20年ほどは、世界の中の日本を痛いほど意識し、西洋世界、特にアメリカとの比較をしながら懸命にモノづくりに励んできました。その時代には、それなりの「インテリジェンス力」があったのです。
しかし、日本は高度経済成長期で調子が良くなったものだから、眼がすぐにまた内向きになり、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと言われたりして、舞い上がってしまいました。結果として敗戦の教訓を生かすことは忘れ去ってしまったのです。
観点を変えれば、アメリカ様という巨大な傘の下で安穏に暮らせたために、またお手本にすべきものはすべてアメリカ様に存在していたために、自分の目で世界を眺め、自分の頭で考えることを捨てたまま暮らしてきたとも言えるでしょう。
詰まるところ我々日本人は、その一般的な特質として世界の歴史の中での位置づけ、つまり世界という地理の上での位置づけを、客観・冷静に眺めることができないままにきているのです。インテリジェンスの力を強化することは、日本においては、ほとんど絶望的なまでに至難のわざとなっているといえるでしょう。
その結果、現在の日本の「インテリジェンス力」の水準は、かつての江戸太平期や昭和の初めの20年に匹敵するぐらい低下しているのかもしれません。
[※次回「情報を制する者が戦いに勝つ」に続く]
(日本アイアール 知的財産活用研究所 N・Y)